学生時代、とある理由で学校に行けなくなったことがあります。
理由は、超個人的かつ身体に関する事情だったため、当時のクラスメイトには誰にも説明ができませんでした。彼らは、それまで普通に学校に通っていた僕が、なぜ急に学校に来なくなったのか、まったく分からなかったでしょう。
学校に行かなくなった当初は、友達からSNSでメッセージがたくさん来ていました。その中には、心配してくれる声も多数ありましたが、「心配するフリをして、説教をかましてくるヤツ」もいました。
学校に行かなくてラクでいいな
直接言葉で言わなくとも、この見出しのような趣旨のメッセージを送ってくるヤツらもいました。「みんなそれぞれ大変なこともあっても、学校に来ているんだ。ただ面倒くさいだけだろ、甘えんな!」と説教をかますのです。
さて、学校に行かないことってラクでしょうか。
- 朝早く起きなくてよい
- 面倒な人間関係のしがらみから逃れられる
- 退屈な授業を受けなくてよい
- 家で好きなことができる
ちょっと考えるだけで、以上のようなメリットが思いつきます。実際、説教をかましてくるやつらはこういった考えを持っているようでした。
ですが、「だったらオメーも学校行かなきゃいいじゃん」と思います。学校に行かないことがラクで羨ましいと思うなら、同じように家にいて好きなことに時間を使えばいい。
ですが、実際にこんなことを言ったら彼らはきっと「親に心配かけられない」とか「そんな逃げるようなマネはしたくない」と言うのでしょう。しかしそんなものは詭弁であって、実際に彼らが学校に通い続ける理由は「学校に行かないメリットよりも、デメリットの方が圧倒的にデカい」からです。
学校に行かないデメリット
上で学校に行かないメリットを列挙しましたが、対してデメリットはどんなものでしょうか。色々と挙げられますが、結局のところデメリットは一つに収束すると思います。それは
将来が不安
これだけです。
日本で暮らしている人間のほとんどが、レールに乗った人生を歩もうとしています。それはすなわち、義務教育を経て高校へ入り、良い大学に行き、優良企業に入るということです。
ところが学校に行かないとなると、このレールから外れる可能性が高くなります。中学校なり高校なりの授業を受けず、それらの知識がないと、偏差値の高い大学に行ける可能性は低くなり、優良企業に行ける可能性は狭まります。そもそも学校に行かずに中退ともなれば、学歴自体がそこで終わってしまいます。
一流企業のほとんどが大卒・大学院卒を採用対象としており、高卒、中卒の枠があったとしても別枠になります。そして、ほぼ100%大卒・大学院卒の方が好待遇を受けることができます。
つまり、学校に行かずに毎日家で昼まで寝たり、ゲームや漫画を読んだりできるメリットに対して、自分の人生を大きく不利にするという圧倒的なデメリットがあるわけです。
※念のため書いておきますが、中卒・高卒の方を蔑むつもりもないし、彼らが一様に不幸な人生を送るなどという短絡的な持論を述べるつもりもありません。多種多様な人生があり、学歴がなくとも素晴らしい活躍をされている方はたくさんいます。しかし「高学歴・優良企業」が幸せな人生をもたらす確率が高いと考える人が多いというのは、厳然たる事実と考えます。
人間は物事の都合の良い面しか見ようとしない
さて、以上述べたように学校に行かないメリットと、デメリットを天秤にかけたら、学校に行くほうがよっぽど理に適っているのです。僕を含めて不登校になってしまう人々は、それを分かった上でどうしても学校に行けないやむを得ない理由があるのです。
さて、では説教をかましてくるヤツらは、学校に行かないことがラクであるというメリットだけ見ていて、デメリットに想像が及ばないから「オメーはラクでいいよな」と言うのでしょうか。
そうではありません。
彼らは「学校に行かないことによるデメリット」は理解しています。というか、日本国内にそれを理解していない人など、ほとんどいないでしょう。それを理解した上で、ワザとメリットだけを強調して相手を責め立てるのです。
「学校に行ってないからお前は朝起きなくていいし、勉強もしなくていい。好きな時間に漫画も読めるゲームもできる。だからラク。甘えるな(その裏で親から責められてるとか知らねーし、将来が危ぶまれて不安とか知らねーし、そもそも何が原因で学校に行けないかなんて知りたくもないし、知ったら責められなくなるし)」
これぞまさに卑怯者の理論と言わざるを得ません。
同じような例はたくさんある
さて、残念ながら今僕が述べたような理論を振りかざす人は世の中にたくさんいます。例えば「ニート」に対する世間の風当たりもそうです。
ネット上には非常に強烈かつ過激な「ニート批判」があふれています。
でもニートって、肉体的にはともかく精神的にはとても過酷だと思います。
僕はニートになったことはないですが、仮にニートの心の内が不登校のそれに近いものなのであれば、多少なりともその心情は推測できます。その心情とは「焦燥感」です。
- 周りの友人は結婚して子供が生まれたり、家を買ったりしている
- 職歴の空白期間がどんどん伸びている。このままではますます就職が難しくなる。もうブラックしかない。
- 親の風当たりが強い。親戚の視線が痛い。
こういった想いが日々頭を去来して、精神を疲弊させ蝕んでいきます。つまり、体は怠けているように見えても、心はむち打ちの刑を受け続けているようなものです。しかし心の中は誰にも見えないため、はたからは怠けているようにしか見えず批判の対象になってしまいます。
目の前で実際にむち打ちの刑を受けて泣き叫んでいる人に対して、「働けクズ野郎!」と追い打ちをかける人はあまりいないのではないでしょうか。
HIKAKINの例
人気Youtuber、HIKAKIN氏の例も出してみたいと思います。
最近はYoutube界の外でもCMに出たり、朝のニュース番組に出演したり、伝説のサッカー選手と共演したりと人気絶頂の彼。噂ではその年収は数億円あるとかないとか……。しかしそんな彼も批判にされされています。
- あいつの動画、超絶おもんないんやけど。なんで人気なんかイミフ
- こいつみたいにラクして稼いでるやつらから税金がっつりとれよ
- あいつの行動すべてが生理的に受け付けない
ここで「ラクして稼いでいる」という発言に注目したいと思います。
彼がほぼ毎日投稿している「HikakinTV」の動画は5分~10分と短いものです。なので、「ラクして稼いでいる」と言って憚らない人々は、彼が毎日5分~10分で撮影して、それをちょいちょいとYoutubeにアップし、他の時間は遊んでいると思っているのかもしれません。
ところが、です。
ある日「HikakinTV」に以下の動画が投稿されました。
この動画は、Hikakin氏のYoutuberとしての一日に自主密着した動画で、彼の仕事ぶりが分かる映像になっています。
動画を観ていただければ分かりますが、生命維持活動を行う以外のほぼすべての時間を撮影や編集に費やしているかのような、衝撃的な実態が明らかにされました。まさにモーレツ社員ならぬ「モーレツYoutuber」です。
この動画に対する反響として「Youtuberってこんなに大変だったのか」「やはり結果を出している人はこれだけ仕事をしているんだな」といった関心の声がある一方、以下のような否定的な意見もありました。
- この日はたまたまテレビ出演があったから忙しそうに見えるだけ。他の日はもっと寝ているはず
- ただの一例。一番忙しかった日がこれってだけでしょ
- 忙しさを鼻にかけているようでうざい
最後の意見に至っては完全な僻みですが、ようするに「本当はこんなに忙しくない」という意見が多数あったのです。
僕の想像ですが、こういった意見が出た理由は「ラクして稼いでいる」と信じてやまない人々の持論が覆されそうになったことによる過剰反応とみています。
ラクして稼いでいるずるいやつだと思ってずっと批判していたのに、実際はブラック企業の社員も顔負けなほど激烈に働き続けていたという事実を見せつけられ、ぐうの寝も出なくなってしまったということです。
ラクして稼ぐことなんてできやしない。大金を稼いでいる人々は、普通の人よりもはるかに多く働いているだけだ。
こういった正論を目の前に突き付けられて「はい、その通りだと思います。僕も頑張ってもっと働いて彼らに追いつけるように頑張ります」と襟を正せる勇気を持つ人は少ないでしょう。
Hikakin氏の仕事をよく知らない人から見れば「毎日5~10分の動画をYoutubeにアップする」というのはとても簡単でラクな仕事に見えるかもしれません。しかしその裏には、撮影時間の何十倍もの時間がかかる編集作業をはじめ、ネタを捜したり、動画の構成を考えたりと、Youtubeを観ているだけでは決して見えない膨大な仕事が隠れているはずなのです。
そこに考えが及ばずに、毎日数十分の作業で大金を得ているずるい金持ちと揶揄するのは、学校に行かなくて良いから不登校はラクしていると考える短絡的な思考の人々と同じではないでしょうか。
想像力のある人になりたい
さて、偉そうに持論を述べましたが「じゃあお前はどーなんだ」という声も聞こえてきそうです。僕も同じような考えを持ってしまうようなことはあります。だから自分自身への戒めの意味も込めてこの記事を書きました。
僕は、もっと想像力のある人になりたいです。
目の前で起きたことやテレビのニュースを観て、その画面上に提示される情報だけを元に「あいつは馬鹿だ」「犯罪を犯すヤツなんで死んでしまえ」といった短絡的な判断を下すのではなく。「あいつはなぜこんな馬鹿なことをしたのか」「この犯罪はなぜ起こったのか。テレビで報道されていない何かがあるんじゃないか」そういった考えに思いを巡らす人になりたいのです。
日常的にそんな思考をしていたら、ストレスでやつれるかもしれませんが、そうしなければ、不登校で辛かったあの日々がまったく無意味なものになってしまう気がしてならないのです。